選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

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だが複雑化した現代社会において人々はつねに多様な選択肢にさらされており、それらすべてについて十分に考慮したうえで選択することを個々人に求めることは――時間的にも能力的にも――非現実的である。自分にとってそれほど重要ではなかったり、十分な判断能力を備えていない問題については自分の利益が相当程度に守られることを前提として他者に委ね、それによって生じた余裕を本当に関心のあること・重要なことに注ぐほうが合理的だし、個々人を幸福にするだろう。「選択しないという選択」の価値はその点にあると、サンスティーンは主張する。

 われわれはこれを、やはりサンスティーンのシカゴ時代の同僚であった憲法学者ローレンス・レッシグ(サンスティーン数1)のアーキテクチャー論に対する応答だと考えることができるかもしれない(『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』山形浩生・柏木亮二訳、翔泳社、2001年)。経済・法・道徳などを個々人を規制するものとして連続的に理解する「新シカゴ学派」と自らを位置づけるレッシグは、その新たな様式として、空間の物理的構造を操作することによって可能な選択肢それ自体を制約するアーキテクチャーに注目したのであった。たとえばファーストフード店の堅い椅子は客を長居させないための、駅のホームドアは鉄道自殺を防止するための、アーキテクチャーだと理解することができる。この例からもわかるようにアーキテクチャーは適切な目的のために利用されることも十分にありうるのだが、制約される個人から意識されることなく・不服従や違反の可能性を物理的に消し去った完全な支配をしばしば実現するという意味において危険性を秘めた存在であり、悪用されないよう社会的に統制されなくてはならないというのが

レッシグの主張であった。

 だが、どうすればそれを実現することができるだろう。われわれが制約に気づかないとすれば、制約に対する反感や評価を購買行動によって市場へ反映させることは期待できない――客を追い出すために椅子の座り心地を悪くしているのだと正面から言われれば客も気を悪くするだろうが、そのような意図を告げる必要がないのがアーキテクチャーの特徴である。行政や司法はしばしば適切な能力を持たず、民主的な正統性を欠いている。政治は本来「われら人民」の意見を反映する重要な経路だが、現実には利益集団化することによって腐敗している。結局この状況は「出口なし」なのではないかというのが、レッシグの焦燥であった。裁判に出口を求めて著作権存続期間の延長法に反対する勝ち目のない法廷闘争に挑み(Eldred v. Ashcroft, 537 U.S. 186(2003))、あるいは自らの手で政治改革を実現しようと大統領選挙の民主党予備選に出馬する(2015年9月。11月に撤退)などレッシグの「迷走」の背景にあるのは彼のそのような社会認識だ、と言うことも許されるだろう。

 だがそれに対してサンスティーンは、アーキテクチャーの威力を利用して個々人の利益・幸福を守りながら、その副作用を避けて善用していくことは可能なのだと主張しているように思える。デフォルト・ルールは悪用されうるが、たとえば暖房温度のデフォルト設定を引き下げすぎれば寒気を感じた人々が積極的に設定を変更してしまうように、アーキテクチャーが人々の利益を損なえばそれに反する行動を人々が能動的にとるようになり、デフォルト・ルールとしての意味を自動的に失ってしまう。問題が生じる場合には、簡略な能動的選択を用いればよい。これまでの選択に合致するような「おすすめ」が自動的に提示されるようになるとその傾向に一致しないものを見る機会が減っていき、趣味や選好が自己言及的に強化されてしまうこと(共鳴室)も懸念される。しかしそれを防ぐために、多様な偶然の出会いを保障するようなセレンディピティアーキテクチャーを構築することもできる……。

 その際にサンスティーンが強調するのは、すでに中立的な場所などないということである――「人が気づいているかどうかに関係なくデフォルト・ルールはいたるところにあり、デフォルト・ルールなしに生活するのは不可能である」。デフォルト・ルールを設定する場合としない場合とでは人々の選択行動に違いが生じるということを、すでにわれわれは知ってしまっている。その状況において一定の利益をもたらすようなデフォルト・ルールをあえて採用しないことは中立的な選択ではなく、なんらかの価値(たとえばそれは本書でハクスリーに言及しながら「行為主体性および重要な意味での尊厳」と表現されているものかもしれない)のためにその利益を断念するという価値判断を意味しているだろう。

 サンスティーンがかつて行った「現状中立性」(status quo neutrality)批判を、ここでわれわれは想起すべきかもしれない(The Partial Constitution, Harvard University Press, 1993)。市場や社会を国家・法に先行して存在するものと位置づけ、それゆえに国家がそれに介入せず「そのまま何もしない」ことが憲法の求める中立的な立場だとする考え方が広く存在している。しかしサンスティーンによれば、たとえば市場も法によって作り出された権利や義務の上に立って現在の状態に到達しているのであり、政府はその現状が憲法の求める理念にかなっているかどうかをつねに検討する必要があるというのだ。

 「能動的選択を主張するのはパターナリズムの代案ではなく、多くの場合、パターナリズムの一種」なのだという指摘も、これと軌を一にしている。個々人の選択に委ねることは、一定の干渉を加えれば彼が得られたかもしれない利益を放棄させるという積極的な意味を持ってしまう。何もしないという選択肢は、実は中立や公正を意味していない。だとすればわれわれにできるのは、さまざまな処方箋の特性、たとえば個人の利益や幸福を保障するかわりに自主性を損なってしまうとか、プライバシーを守るために利用可能な情報が制約されて一定の不利益が放置されるとか、そのような長短を考慮し、間違った場合の被害が大きかったり判断が難しい場合には自主性よりも利益を重視するといったように「判断のコストと誤りのコスト」を調整していくことだけなのだというのが、アーキテクチャー論に対する彼の反応だということになるのではないだろうか。同様にサンスティーンが「完全には理論化されていない合意」(incompletely theorized agreement)の重要性を主張したことを想起しよう(cf. Incompletely Theorized Agreements, Harvard Law Review, vol. 108, pp.1733-1772

)。社会的な論点について、議論に関与するわれわれ全員が心からの同意に達し、動機や理由づけも含めて一致することなどありはしない。いま・ここで次に何をなすべきかという外見的な行為の辞限度とりあえずの合意が形成できれば十分だというのが、その主張であった。アーキテクチャーの統制という問題の論理的な「出口」、完全な解決を約束する処方箋を模索し続けるレッシグに対して、現実に社会を動かすのにそのような結論は必要ないと、サンスティーンは微笑んでいるのかもしれない。

国民投票CM「資金力の差で不公平に」 法改正求める声

(朝日新聞デジタル - 05月31日 08:07)