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殺陣

上手く文章に書けなかったけど 凄いなぁって思った説明

無限の住人

『武士の一分』の時も思ったけど、木村拓哉の殺陣は惚れ惚れするほど美しくて、これだけでも十分見る価値ある。その上で多種多様な武器を使いこなしての大立ち回り。なかなか無いんじゃなかろうか。個人的には槇絵戦で見せた、双竜刀を装着する時の仕草にうっとり。

近畿の天気概況

近畿の天気概況

平成29年4月30日04時35分 大阪管区気象台発表

近畿地方は、高気圧に覆われて晴れています。

今日の近畿地方は、高気圧に覆われて晴れるでしょう。

大阪府の予報は『晴れ』、最高気温26℃最低気温13℃。

明日の近畿地方は、高気圧に覆われておおむね晴れますが、上空の寒気の影響により大気の状態が不安定となるため、雨が降り雷を伴う所がある見込みです。

近畿以外の方はこちらのHPをご覧下さい。

http://www.jma.go.jp/jp/yoho/

仕事から志事へ

久し振りにNHK

朝ドラを観た。

東京オリンピックの翌年の集団就職の話だった。

その頃は私は大学一年生かな。

テレビも電話もあまりない不自由な時代だった。

公衆電話に集団就職と思われる人達が並んでた。

沖縄はまだ外国だった。

東北の言葉や九州弁に

日本は広いんだなあと驚いたものです。

私は毎晩自炊で、ガスでご飯を炊いていた。

電器釜などないから、鍋で炊いた。

いつもお粥になっていた。

毎晩コロッケ買っていた。

あるスーパーに集団就職の女の子がいた。

可愛いその子が

とうとう見かねたのか

メンチカツをこっそり入れてくれた。

ポッ!

と赤くなってしまった。

あの時の始めての

メンチカツうまかったな。

あの子は

「ちゃんと野菜も

食べなくちゃだめだよ」

年下のくせに

参ったなあ!

懐かしい時代を

思い出しました。

さて、集団就職

金の玉子といわれて、

仕事を求めて上京して来ましたね。

「仕事」とは、会社に使われ、食べる為にやること。

ライスワークと言われています。

「私事」とは、自分の好きなことをやっている事。

ライクワークとも言います。

「死事」とは、好きでもないことを嫌々やっている事。

ヘイトワークと言う。

「志事」とは、誰かの

役に立つ一生続ける事。

ライフワークと言われています。

自分の仕事は、

人の役に立って

いるのだと感じる事で、

嫌な仕事

ではなくなり

志事になるのです。

私は志事をして

お礼を言われて

お布施を頂いている。

志事に

感謝しています。

皆様も嫌々と

思わず朝を迎えて

ライフワークに

励んで下さい。

合掌

入れ替え・・・

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1923408.html

なんかここまでいっちゃうと怖いな・・・

単なる緩衝地帯が逆上せてますなぁ

■米空母カールビンソン、対馬海峡航行 朝鮮半島近海へ

(朝日新聞デジタル - 04月29日 10:12)

聴講三週目

 先の木曜日で今年の通学生活も第三週目に入り、聴講している講義も二つともいよいよ序論が終り、本論に入りだした。

 朝、一講時目「栄西道元」では、元亨釈書(げんこうしゃくしょ:14c.に書かれた日本最初の仏教通史。諸々の高僧の伝などが続く)の中の明菴栄西さんの項の読み下し文を読み進めるという格好で始まった。

栄西さんと言えば、祇園にある建仁寺を開山し『喫茶養生記』を記したこと有名なんだが、本当は禅僧としてどの程度に偉いのかは、私奴は良く知らない(明治期に欧米に出留学し、帰国して先進諸学について横文字を縦文字に直して移入しただけの学者先生程度のもんではなかろうかと私奴は思っている。まあ今のところの私奴の誤解かも知れんが)。

二度も中国(宋)に渡り、明恵さんや道元さんも立派な禅師だというからには偉い僧なのだろうが?

 まあ、それは兎も角、原文でなく読み下し文を読むというのは漢文に疎い私奴にとってはありがたいのだが、若い学生さん向けに初歩的な解説がダラダラと続いたのには少しばかりウンザリ気味だ(まあ、本来は若い学部生向けの講義なんだからいたし方がないのだが)。

「今しばらくは我慢して!」と思っているが、こんな話が続くようなら、ワザワザ朝早くから教室に出向くだけの値打ちはないなあ!

 次の講義まで4時間のヒマがあったので、折よく学内の歴史博物館で開かれていた「原の白隠さん」展を覗いたり、図書館で昼寝をしたり。「原の白隠さん」展は、白隠禅師250年遠諱記念として開かれているもので、松蔭寺と沼津に伝来する白隠さんの禅画・墨蹟を展示したもの。展示室には学芸員さんがひとりポツネンと受付をしていただけで訪問者はなし。昨春松陰寺を訪れた時のことを思い出しながら見て回り、学芸員の女性から解説を受けた。

昼過ぎに図書館で聴講生仲間と出くわしたので、学生食堂に席を移しコーヒーを飲みながらバカ話で時間を潰した。

 四講時目は「仏教哲学の世界観」。タイトルはえらく仰々しいが、要は世親の『倶舎論』の講義。この講義を聴講するはもう四年目にはいる、今年度はさらに聴講する人が増え、相変わらず人気が高い。『倶舎論』の細部をクシャクシャと読むのだから(多分全体を読み終えるには、この先10年はかかりそう)ペダンティクとも言えそうなものだが、先生の解説が細部をつつきながらも仏教全体や原始仏教(お釈迦さんの教説)と今日の日本仏教大乗仏教)との比較など話が及び並みの坊さんの説法にない新鮮さを感じさせる点が、大勢の聴講生を集める所以だろうと思う。

 今日からGW突入、次回聴講は5月4日でGWのど真ん中。だが、学校は休みではない。まあ、どのみち私奴は閑人。世間がGWであろうがなかろうが関係はない。シコシコと教室へ通うことになる。

さて、今日はヒマ潰しに、松の木のみどり摘みでもするか!

 

現在、グローバリズムや新自由主義の横行に対して、抵抗する枠組みとして保護貿易主義の復権の提唱も<南北戦争で北部が勝利してから、保護主義を採<主権国家形成期の絶対王政諸国が採った重商主義政策

保護貿易主義/保護関税政策

自国の産業を保護するため外国からの輸入品に高関税を掛けたり数量制限をする貿易政策。自由貿易主義と対立する。

 外国との貿易に際して、自国の産業を保護するために、輸入品に対して高率の関税を賦課したり、数量制限などを設ける政策。主権国家形成期の絶対王政諸国が採った重商主義政策が保護貿易主義の最初の形態である。イギリスは特許会社である東インド会社に貿易を独占させるなど典型的な重商主義を展開していたが、イギリス革命・産業革命を経て産業の発展には保護主義はかえって有害であると説くアダム=スミスやリカードらの自由貿易主義が台頭し、次第に政策を転換していった。19世紀前半には地主保護のために穀物法が制定されたが、それらの保護主義は、1846年の穀物法廃止、49年の航海法の廃止など一連の自由主義改革によって、保護貿易主義は後退した。こうしてイギリスは自由貿易主義を率先して拡大し、フランスもナポレオン3世の時代に英仏通商条約を締結して自由貿易主義に転換した。  工業化に立ち後れたドイツでは1834年に発足したドイツ関税同盟で域内の関税を廃止し、対外的な統一関税を設定して経済の一体化をテコに1871年にドイツ帝国を成立させた。その間、経済学者リストは工業化の遅れている後進地域では保護貿易主義はやむを得

ないことを強調し、19世紀後半にドイツは保護関税のもとで重工業を中心とした産業化を達成した。

アメリカの保護貿易主義

 イギリスから独立したアメリカ合衆国も、特に工業地帯である北部はイギリス製品からアメリカ産業を守るため保護関税政策を主張し、共和党の政策となった。アメリカは1861年に起こった南北戦争で北部が勝利してから、保護主義を採るようになり、アメリカの外交政策孤立主義とあいまって、アメリカの基本姿勢として維持された。一方民主党自由貿易主義を採り、政権を取った1910年代にはそれを実現した。

世界恐慌保護貿易主義

 アメリカでは、1920年代の共和党時代の経済繁栄の行き過ぎから1929年に株価の大暴落が起こった。ここから世界恐慌が始まると、フーヴァー政権はスムート=ホーレー法という高関税を認める立法を行い、保護主義を明確にした。それに倣って世界各国は保護主義に急速に傾き、また植民地や勢力圏を有する強国はそれらの地域を囲い込んでブロック経済をつくりあげた。共和党に代わって成立したフランクリン=ローズヴェルト民主党政権保護主義を転換させ、互恵通商方式をとろうとした。しかし、イギリスは大戦間の1932年には保護関税法を制定して保護貿易主義に転じ、自治領産品以外にはいずれも高率の輸入税を課した。さらに1932年のオタワ連邦経済会議によってイギリス帝国特恵関税政策に拡大され、スターリング=ブロックといわれるイギリス通貨ポンドを基軸通貨とするブロック経済圏を構築した。

第二次大戦後から現在まで

 このような世界恐慌後のブロック経済が、第二次世界大戦の要因の一つとなったことを反省し、戦後の国際社会はアメリカの互恵通商主義を発展させ、1948年1月に「関税と貿易に関する一般協定=GATT」を発効させ、自由貿易の原則を打ち出した。こうして第二次世界大戦後には保護貿易主義の克服が課題とされたが、戦後のアジアアフリカの民族独立の潮流の中で、南北格差の問題が明らかになり、新興国のあらたな貿易保護の動きが出てきた。さらにアメリカ主導の世界経済の枠組みが崩れ、日本やドイツの急成長から、多極化が進み、また、1980年代末の社会主義圏の崩壊は、世界経済のグローバリズムを一段と推し進めた。この間、ウルグアイ=ラウンドなどの多角的交渉が進められ、各国間の貿易摩擦の解消にあたってきた。さらに中国が改革開放に転じて世界の経済大国として登場してきた。このように20世紀末から21世紀にかけて、戦後の世界経済の枠組みは大きく変動し、GATTは世界貿易機構(WTO)に改変されるなど、対応に迫られている。現在、グローバリズム新自由主義の横行に対して、抵抗する枠組みとして保護貿易主義の復権の提唱も現れている\xA1

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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーーー

http://www.y-history.net/appendix/wh1204-066_1.html